ぬいぐるみ
交通事故で死んだ弟の魂みたいなものが私の部屋の本棚の上に飾ってあるクマのぬいぐるみに宿ってしまったのが、一週間前のこと。
「おかえり、お姉ちゃん」
「…………」
弟が死んだショックを考慮されて、親から学校を休むことを勧められたのも昨日まで。
今朝、父親は特に何も言わずに仕事に行き、母親は特に何も言わずに家事をしていた。私は特に何も言わずに朝の支度を済ませて、特に何も思わずに学校に出かけた。
級友達の生温い励ましの言葉を受け流して、担任の的外れの配慮をやり過ごして、一日、過ぎ去った。少し前まで、学校が終わればその日は終わったも同然だった。あとは自然と瞼が下がるその時まで、ただ一人、自宅の自室に閉じこもっていればよかった。
弟の部屋は隣だった。
弟も、学校から帰ったあとは、ずっと引きこもっていた。
私達、家族が一堂に揃うことは少なく、その数少ない夕食の時すら、温かみなどまるでなく、ただ肌寒い沈黙が霜のようにおりていた。
「ひさしぶりの学校は、どうだった?」
「別に……」
ぬいぐるみが、笑っているように見える。
本当に動いているわけではないのに、表情は確かに見える。縫い付けられた模様にしか過ぎない口が、私には確かな言葉を発しているように思える。心が不規則なリズムを刻んで私に教える。どこからどう見ても、何をどう聞いたとしても、このぬいぐるみは弟なのだ。
「慣れた?」
と、尋ねられる。
「何が?」
「僕のこと」
「さあ」
気のない返事をする。
「ふーん」
と、どうでもいいような言葉が返ってくる。
「なによ?」
怒る。
「別に」
また、笑っている。
「ただ、お姉ちゃんの真似」
私はまだ立ったままだった。制服から着替えもせず、鞄すら床に置いていない。
その手に持ったままだった鞄を、クマのぬいぐるみ目掛けて投げつけた。
「わお」
ばこん、と。
鞄もクマも、床に落ちる。
「やだな。元に戻してよ、お姉ちゃん。僕、動けないんだから」
非難する声ではなく、むしろ楽しそうで。
私は―――。
「…………」
―――無視した。
「あー、そんな態度をとるんだ」
笑い声。
私一人だけのはずの部屋に、響く。
私はクローゼットを開けて、普段着を取り出して、制服のボタンに手をかけた。振り返ってみると、ぬいぐるみの瞳は壁の方を向いている。私には背中を向けている。それだけ確認して着替えた。
そして、することがなくなる。
「僕に気を使わなくていいんだよ」
ぬいぐるみが、私の顔も見えないというのに、そんなことを言う。
「ねえ。だって、ねえ。僕とずっと一緒だと不健康だよね。やっぱお姉ちゃんは優等生だから、部屋に篭って勉強もいいと思うけれど、僕がいると集中もできないだろうし。この一週間は、ずっと布団をかぶって、何もしないだけだったし。ねえ。僕と一緒にいたって、普通にお話もしてくれないんだし。だったら、外にでも行けばいいんじゃないかな。お母さんの料理でも手伝ってくればいいと思うよ」
私はその言葉を無視して、椅子に座った。
「お姉ちゃん、質問」
弟が死んだ一週間前。
交通事故。
学校帰りの道。別々の学校に通う私達姉弟が、偶然、家の近くの交差点で一緒になって、お互い、視線は合わせたものの、何も言わず、ただ他人同士のように前後に並んでいた。弟が前にいて、私は黙って、その背中を見つめていた。黒い、真っ黒の制服。私より高い背。赤信号。車が流れていく。音が聞こえなかった。目の前に、弟。
ぽんっ、と。
死んだ。
そうして、私自身、魂が抜けたような抜け殻のような有様になって、何がどうなったのか、いつ警察やら消防車が呼ばれたのやら、思い返そうとしても今ではできない。目は確かにものを見て、耳は確かに音を聞いているというのに、体はとても冷たくて、心はとても冷えていて、まるで人形のようにふらふらとしか動けなかった。
そんな状態でも、いつしか部屋に戻っていて、私は、ぬいぐるみの弟と再会したのだ。
その時以来、ずっと同じ質問を受けていた。
「どうして僕を突き飛ばしたの?」
一週間、布団をかぶり続けた私に。
ぬいぐるみの弟が。
「どうして僕を殺したの?」
どこか笑っているような調子で。
「どうして?」
とても平坦な声で、何度も何度も、同じ問いを繰り返してきた。
今もまた。
「うるさい」
「ねえ、お姉ちゃん」
「黙って」
「教えてよ」
「嫌」
鋏を手にとって、ぬいぐるみを引き裂いて、内臓ではなく、中身の綿を引きちぎって、プラスチックの目玉を刳り貫き、耳を突き刺して、手足を裂いて、茶色の皮膚を何度もざくざくとざくざくと切り裂いていって、原型などまるでわからない程に壊しつくして、それでも鋏を握り締めて、呼吸を荒くしていると……。
「お姉ちゃん」
本棚の上にある、ウサギのぬいぐるみが―――。